祭りを守ってきたむら人たち
霜月まつりのはじまりについては、いくつかの説があって、いまのところはっきりしておりませんが、
おそらく何百年という歴史を重ねてきたものと思います。
それにしてもあれだけ複雑なまつりごとを、文字が読めない人たちが、どのような方法で守り伝えてき
たのか、まさにおどろきのほかはありません。
そして村の歴史を調べてみますと、いろいろのことがあります。
とくに享保年間には、作物がとれなくて八百人ものうえた人が出ております。
また明治になっても、赤痢や、ほうそうがはやり、二百八十九人もの人たちがそのために亡くなってい
ます。
でも祖先の人たちは、おたがいに力を合わせ、苦しみに負けないで、霜月祭を守ってきたのです。
もし村の人々が、お祭りをやめてしまったら、おそらく遠山地方には、霜月祭はなくなっていたと思い
ます。
昭和に入っても、日本が戦争に負けたときは、いままで通りに、霜月祭ができるかどうか心配でした。
村のしゅうは、食糧不足と、不安のなかでお祭りどころではありませんでした。
でも、霜月祭は休むことなく行われてきました。
そのかげには、ねぎさまをはじめ、祭りを守ってきた人たちのけんめいの努力があったのです。
また昭和三十七年頃のことですが、村をはなれる人が多くなり、とくに若い人が少なくなりました。
そこで、お祭りをもっと整理してかんたんにしたらという声がもちあがり、各所で話し合いがもたれ
ました。
そこで話し合われたのは、だいたいまとめると三つにしぼられたのです。
一、祭りの時間をもっとみじかくし、おそくても十一時ごろには終わるようにしたらどうか。
二、各神社で別々にやるのを、一カ所に集めて盛大にやったらどうか。
三、祭日を変更して正月にやれば、お金の節約になるし、また若者たちが帰ってくるから、
祭りをにぎやかにやれる。
いくどか会議をした結果、最終的には、ほとんどの神社が、伝統を守ってゆくことにきまりました。
これは村人のかしこいはんだんによるものです。
世のなかがどんどん変わってゆくなかで、伝続を守ることはたいへんですが、霜月祭りは遠山に生
まれた者の心のふるさとです。